どーなつの連続性定理

1つ1つは発散しても最終的に収束したい/アメリカのどーなつもふわふわしている

「リケジョ」論考

「リケジョという言葉が嫌いだ」

東大の研究者の方の記事から。

 

記事を一言でまとめると

自分は研究者として仕事しているだけなのに、いちいちジェンダーを強調されることを不快に感じる。

ということだろうか。

 

これに関してはメディアが助長しているように思う。

例としてあげられているのが、

私自身の研究や仕事を取り上げていただく際も、しばしば女性であることを強調される。

なので、メディアがそうしなければいいだけでは?とおもう。

いわゆる「ステレオタイプ」にメディアが引っ張られてはよくないだろう。

 

また、

理系の基礎研究において、女性研究者の数が少ないという事実に戸惑う

と書いてあるが、

これは確かにそうなのだがもともとわかっていた話な気もするので、

わたしはそういう環境にいたが戸惑いはなかった。

 

この方は

その分、優秀な人材が他の業界に流れている

といっているが、

そもそも「優秀な」女性が他の業界ですら働けているのかが怪しい。

 

その理由として

理系分野で働く女性を特別視する日本社会からの影響によるものではないだろうか。

ということが挙げられているが、

日本社会、それこそ前出のメディアや身近な親や先生などの何気ない一言で、

理系を意識的にも無意識にも避けているのではないだろうか。

 

やはり女性の少ないところに飛び込むのはなかなか難しい。

無理矢理にも数を増やす方策はあってもいいのではないか。

ただ、数だけ増やしてその後受け口があるのかという問題もある。

それは一旦おいて、女性を増やすキャンペーン的な意味で「リケジョ」は使われているように感じる。

普通に理系分野にいる女性からは不満な点もあるだろうが、

今後リケジョが当たり前になればその言葉も廃れるのだろう。

 

女性であることを特別視されない社会、

女性であっても理系を含め「好きなこと」をできる社会になってほしい。

そのための「リケジョ」としてのロールモデルとして何ができるか、

考えなければいけないとおもう。