読んでいた古い本とツイッターがリンクする現象が起こってとても興味深い。
この本読んでる。まだ途中だけど。
人生は出会いだな。
前から梅棹忠夫が好きで(知的生産の技術 (岩波新書)のひと)
京都にたまたま行く機会の時に、
ツイッターでフォローしてた暦本先生という人が、
🍁京都でお会いしましょう🍁RT @xirott: あの情報学と文明学の大家
— Jun Rekimoto : 暦本純一 (@rkmt) 2016年12月6日
梅棹忠夫をめぐる展覧会とシンポジウム「梅棹忠夫と未来を語る」
第1回企画展
梅棹情報学・文明学とコンピューター
〜生態系から文明系へ〜 ... https://t.co/5P6Mt9Ln25
たまたま呟いていたのを目にして、寄ってみた。
会場は、梅棹忠夫の旧宅で梅棹氏の著書がいっぱい。
そのなかで目について、これは読まねばと見つけたのが上の本。
(余談だけど、「人間にとって〇〇とは何か」というタイトルの本の多さよ。)
それを最近読んでいるんだけど、
物理界では有名な田崎先生という人が最近ツイッターで、
「○○という概念を一般の人にわかりやすく説明するのは難しい」という話を頻繁に耳にする。 1/9
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2017年1月25日
こういう言い方をするときは、往々にして「上手に説明しさえすればわかる」ことが前提になっていて、説明の技術が主に問題にされているという気がする。しかし、ある種のことがらは「そもそも難しい」ということを忘れたくない。 2/9
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2017年1月25日
大ざっぱに言って、人は、自分が既に経験した(あるいは、わかっている)ことから類推できる概念は比較的容易に理解できると考えていいだろう。裏を返せば、普通の人の経験や知識から大きく隔たる概念を説明し理解してもらうのは難しいのだ。 3/9
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2017年1月25日
こんなことをつぶやいていた。
上の梅棹-湯川対談でも、似たような話があって、
「科学は一定のトレーニングを経さえすればだれでもかなり大量の情報を組み込ませることができる」
といっているのである。
上の田崎さんのツイートの「自分がすでに経験したこと」が「トレーニング」にあたるのではないだろうか。
私の解釈では、その得たい「情報」には「一定のトレーニング」が必要で、
ある高度な「情報」にはわりと多くの「トレーニング」が必要なのではないかと思う。
田崎さんの言っているように、「説明の技術」ではなんともならず、
「経験」=「トレーニング」が必要なのではなかろうか。
サイエンスコミュニケーションは、
専門的な知識がない人にも専門的なことをわかりやすく説明するということを
中心にしていると思うが、
この田崎さんのツイートからだとそれには限界があるのだろう。
ちょっと飛ばしてしまうが、
(馬鹿な比喩だが、数を数えるということを知らない人に「金額」という概念を伝える困難を想像してほしい。コインやお札を見せ、使う現場を見せることもできるだろうが、「金額」の理解はまた別の次元の話だ。) 7/9
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2017年1月25日
日常概念の延長で容易に理解できる事柄を意図的に難解に見せようとするのは愚かの極みだが(←そういう人もいる)、一方、実際には日常の延長では理解しきれないことを言葉巧みに説明して「わかった気」にさせるのも罪作りなことだとぼくは思っている。 8/9
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2017年1月25日
難しい事柄については、はっきり難しいのだと伝え、どうして難しいのか、また、(要望があれば)何をどれくら学べば本質が理解できるのかをもしっかりと説明すべきだ。ぼくもそういうやり方を目指そうと思う所存です。 9/9
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2017年1月25日
という考えにはすごく共感している。
「何をどれくらい学べばいいか」、どう学べばいいのか、ということは
体系化されていないように思う。
大学のシラバスとか?
これを見てすぐに頭に浮かんだのは、
このへんがそれなのかなぁと。
ただ、じゃあ教科書よんでみっか、ってなるかっていうと
そうでもない気がするし、難しいなぁとおもう。