どーなつの連続性定理

1つ1つは発散しても最終的に収束したい/アメリカのどーなつもふわふわしている

サイエンスコミュニケーションについて

読んでいた古い本とツイッターがリンクする現象が起こってとても興味深い。

 

この本読んでる。まだ途中だけど。

人間にとって科学とはなにか (中公新書 132)

人間にとって科学とはなにか (中公新書 132)

 

 

 

人生は出会いだな。

前から梅棹忠夫が好きで(知的生産の技術 (岩波新書)のひと)

京都にたまたま行く機会の時に、

ツイッターでフォローしてた暦本先生という人が、

 たまたま呟いていたのを目にして、寄ってみた。

会場は、梅棹忠夫の旧宅で梅棹氏の著書がいっぱい。

そのなかで目について、これは読まねばと見つけたのが上の本。

(余談だけど、「人間にとって〇〇とは何か」というタイトルの本の多さよ。)

 

それを最近読んでいるんだけど、

物理界では有名な田崎先生という人が最近ツイッターで、

こんなことをつぶやいていた。

 

上の梅棹-湯川対談でも、似たような話があって、

「科学は一定のトレーニングを経さえすればだれでもかなり大量の情報を組み込ませることができる」

といっているのである。

上の田崎さんのツイートの「自分がすでに経験したこと」が「トレーニング」にあたるのではないだろうか。

 

私の解釈では、その得たい「情報」には「一定のトレーニング」が必要で、

ある高度な「情報」にはわりと多くの「トレーニング」が必要なのではないかと思う。

田崎さんの言っているように、「説明の技術」ではなんともならず、

「経験」=「トレーニング」が必要なのではなかろうか。

 

サイエンスコミュニケーションは、

専門的な知識がない人にも専門的なことをわかりやすく説明するということを

中心にしていると思うが、

この田崎さんのツイートからだとそれには限界があるのだろう。

 

ちょっと飛ばしてしまうが、

 

という考えにはすごく共感している。

「何をどれくらい学べばいいか」、どう学べばいいのか、ということは

体系化されていないように思う。

大学のシラバスとか?

これを見てすぐに頭に浮かんだのは、

readingmonkey.blog45.fc2.com

このへんがそれなのかなぁと。

 

ただ、じゃあ教科書よんでみっか、ってなるかっていうと

そうでもない気がするし、難しいなぁとおもう。